たい焼の魚拓

絶滅寸前『天然物』たい焼37種 たい焼の魚拓 / 宮嶋康彦

ちょうど冷え込んできたタイミングに、東京は四谷見附にある「わかば」のたい焼きが食べたいと言うマイミクさんの日記を読んだら、無性にたい焼きが食べたくなりました。東京には鯛焼き御三家があるようです。たい焼き今川焼きから派生したようです。また、天然物(1匹焼き)と養殖物(数匹まとめて焼く)があることも。そして、極めつけはたい焼の魚拓が本になっています。たい焼きは奥が深いです。

で、どうせ食べるなら美味しいたい焼きが食べたいですよね。でも、ご当地浜松ではどこが美味いか分かりません。そんな時に頼りになるのが、mixiのコミュニティ「浜松の安くてうまい店」です。メンバーが2500人以上いるので、すぐにたくさんのコメントをいただけました。そして、この10日間ほどで美味しいと教えていただいた店、クルマで走っていて見つけた店、そして、スーパーの前にある店まで、たくさんのたい焼き屋を食べまくりました。素人なんで何でもまとめ食いしないと微妙な違いが分かりません。おかげで少々胸焼け気味です

そして、デジカメ片手に店先でたい焼きをほおばりながら、ご主人さんと話をしました。そして、分かったのは、昔から街のたい焼き屋さんとして、近所の子供やお年寄りが小銭をにぎって買いに行った店はご主人が高齢になって年々減っていることです。そして、たい焼きと言えば、ホカホカ、パリパリ、モチモチ、トロ〜リなものだとばかり思っていたら、パンケーキミックスを混ぜて作った出来立てはフワフワだけど、冷めるとしぼんでしまってまったく美味くないたい焼きがあることも。

ってことで、前置きが長くなりましたが、いつも通り、1匹だけ100円そこそこのたい焼きを買うためだけに、ガソリン代を使っても、また食べたいなぁと思った店だけを紹介していきたいと思います。

遠州のたい焼きシリーズ


本業はカメラマンである宮嶋康彦さんのたい焼の魚拓は見ても読んでも楽しいです。ただし、この本には写真が一枚も載っていません。これもこだわりですね。

冗談たい ・・・ 初めて採った、たい焼の魚拓

 確かに、1匹焼きの作業は非効率的である。鉄の型は、1丁2キロもあるという。それが火床の上に10丁並んでいた。片面が焼けると、ひっくり返す。店内にガランゴロロ・・・と音が響く。手間のかかる焼き方だな、と思った。生地と餡子には、店の命運をかけたこだわりがある。当然、材料の産地なども厳選。豆から煮る餡子は、その日売れると予想した量だけこしらえる。なるほど、これほど手間がかかるのなら、経済効率優先の時代に絶滅が危惧されるという話ももっともである。
 その他、焼き型には2連式、3連式、4連式というのがあることもわかってきた。需要に応じて、一度に複数焼けるようになっている。この焼き型の匹数が増えた決定的な事件が『およげ!たいやきくん』の大ヒットだった。全国にたい焼きブームが起こるとともに、店が急増。焼き型も、6匹焼き、8匹焼きの焼き板まで出現したのである。
 そこまで知ったとき咄嗟に悟った。絶滅危惧種の1匹焼きは「天然物」だ、と。
 いっぽう、鉄板の上で8個、10個と大量に生産されるものを「養殖物」と呼ぶことにした。もちろん洒落である。両者の優劣をいうものではない。

元祖たい ・・・ 浪花家総本店(東京都麻布十番)

 「めでてえし、だいいち、本物なんて高くて食えねえじゃねえか」
 こうして(明治42年:1909年に)東京の麹町に、たい焼きの店「浪花家」の暖簾が揚げられた。
 味に自信はあった。しかし、明治末期といえば、格式が幅を利かせていた時代。たい焼きの格は団子や大福よりも下。「下の下の菓子だったわけよ。さっぱり売れなかったようだよ」と神谷さん(=大正12年生まれの3代目、神谷守一さん)。小柄で口にちょび髭が愛嬌だ。
 たかがたい焼、しかし、腐っても鯛。福があった。大正になると、第一次世界大戦、米騒動にシベリア出兵、関東大震災・・・と、景気のいい話は聞こえてこない。さりとて、甘いものの誘惑は絶ちがたい。なにしろ1銭で尾頭つき。江戸っ子の見栄も吹き飛んだ。たい焼は庶民の町で市民権を得るようになっていく。

踊りたい ・・・ 柳屋(東京都人形町)

「たい焼は餡がいのち。皮は脇役」
 これが初代の口癖だったという。餡子を極めた(初代は柳屋を興す前に、餡子の製造元に勤めていて、みっちり餡子作りを学んだ)職人らしい言葉だ。
 柳屋(明治17年:1884年生まれの竹内七郎氏が32歳の大正5年:1916年に創業)はまた、薄皮で香ばしいたい焼を考案した元祖だ。当時のたい焼のほとんどは厚皮で、とぢらかといえば饅頭のようだったらしい。
 薄皮は大正初期の頃、上州磯部温泉の温泉煎餅からヒントを得たもの。磯部は七郎氏の故郷と東京を行き来する中間にある。汽車旅のなぐさみにでも買ったのだろう。この煎餅に餡を挟んで食べると、すこぶる美味しかった。これがきっかけになって、ぱりっとした皮のたい焼が誕生した。
    (途中省略)
 ところで、磯部煎餅は「箸もの」といい、大きな植木鋏(うえきばさみ)のような焼き型で焼く。箸の先端に煎餅の型が付いている。ほぼ、たい焼の型と同じ。先端が煎餅の型か、あるいは、たい型かの違いだけ。つまり、たい焼の型は、煎餅の「箸」が基になったということがわかる。

誠実たい ・・・ わかば(東京都四ツ谷)

「わかば」といえば「たい焼論争」で名高い。直木賞作家で演劇評論家の安藤鶴夫と、監督で食道楽で知られる山本嘉次郎が「わかば」のたい焼で大真面目に論争したのだ。ことのはじまりは「あんつるさん」の名で親しまれた作家が、わかばのたい焼を「尻尾まで餡が入った誠実さ」と評したのが起こり。
 この一文は昭和28年3月19日の読売新聞に掲載された。そこにはこう書かれている。「・・・しっぽから食べたら、しっぽのはじっこまで、見事にあんが入っていた。・・・戦争この方、もう永い間、たいやきのしっぽにあんこの入っているのを食べたことがない。・・・ぼくはいたく感動して・・・そのことを主人に褒めた。すると主人は・・・実は、それをいって頂きたかったのですが、どなたからもいわれたことがなかったという意味のことをいって、ぼくに一つ頭を下げ、ほろりとした。たいやきのしっぽに、あんこが入っているのはあたりまえのことである。だが、戦争以来、いまだに、あたりまえのことがあたりまえになっていないようだ。一つ金十円也のたいやきにうまいまずいをいうのではない。ぼくはそのたいやきに、人間の誠実さを味わった」
    (途中省略)
 一方、「尻尾はいうなら箸なおし、餡はしつこい」と反論したのが映画監督の山本嘉次郎だった。監督は麻布十番「浪花家総本店」のたい焼をこよなく愛する人だ。この論争はマスコミを巻き込んで、大喧嘩に発展。最後は落語家の古今亭志ん生が仲裁に入り、両者の言い分を尊重、ドロー試合に終わる。
 うーん、ぼくにすれば餡子論争よりも、こんな子どもじみた話に熱心になるおとなに、うるわしい感慨を抱くのだ。ほんの近ごろまで、正しい遊び人がいたのだな、と羨望せずにいられない。2人に見てもらいたかったなあ、ぼくのたい焼の魚拓。

宮嶋康彦さんの魚拓への情熱

 3匹買う。愛想のない紙袋に入れてくれるところが昔風でうれしい。ぼくは紙袋に伝わるたい焼の熱さを抱いて、商店街の入り口まで駆けて戻った。ちょっとしたスペースを見つけてあったのだ。そこでさっそく、墨と筆と半紙を用意した。まず、熱いうちに1匹食べる。うーん、餡と皮が舌の上で戯れる。
 魚拓を採り始めて、しまった、と思った。通りを向いてあぐらをかいていた。これじゃ物売りのようではないか。通行人が見咎(みとが)める。説明している暇はないから、野次馬に背中を向けた。上々の仕上がりだ。たい焼の魚拓はやっぱり、こうしてたい焼の熱さを、指に感じながら採取するのが本道だな、と思う。仕上がりに満足して見上げた空に、相変わらずうろこ雲が東へ流れていた。
たい焼の魚拓


追記:

都営地下鉄浅草線人形町駅

スタンプ収集家でもある梅成弟子丸さんが、柳屋の最寄り駅である都営浅草線人形町駅のスタンプを送ってくれました。

ホントだぁ〜、たい焼きだぁ

それにしても、自前のスタンプ台と厳選した用紙で押した印影は美しいです。